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人の気持ちや考えていることがわからない。当たり前と言えば当たり前なんだけど。小説やらに出てくる登場人物の気持ちはわかるのに現実の人間の気持ちなんて全く想像できない。想像しようとしていないのかもしれないけど。他人のことは全てそういうこともあるのかと思って自分と共通項なんてないと思う。これが時には傲慢に見えるのかも。もっと他人のことをわかりたいなと思うようになった。もう少し前は他人のことを尊敬できるようになれたのにその前の他人を全くわからない状態に戻りつつある。おそろしい。他人のことを考えて行動できるようになれたらなと思う。

 

自分一人でいるときは当たり前だけどしごく大人しいと思う。というか暗い。だけど他人と一緒にいるとつい明るくバカみたいな振る舞いしかできなくなる。間を持たせようとかでワーっと話してしまう。こんな話、前にも書いた気がするな。いつだって落ち着いた人間になりたい。今年度中はそれを意識しながら生活していきたい。少し前はスカした人間になりたいなと思っていたな。

 

この間、久しぶりにパスタを食べた。ナスのボロネーゼとか好きだ。次はカルボナーラとか食べたい。

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自販機のなぞかんに思い通りのジュースがでてきたのは私がラッキーだったわけでも何でもなくて、なぞかんからでてくるのはいつだってそのジュースだった。

写真が好きだ

私はよく写真を撮る。人の写真を見るのも好きだ。何気ない風景を撮った写真が特に好き。あまりにも作られすぎた写真は個人のものではあまり見たくはないなと思う。過食気味。

 

写真は好きだし記録のためにはとても便利だ。そして何よりわかりやすい。写真全てがそうだとは言わないけれど、わかりやすいものが多いんじゃないかな。わかりやすく消費されるものはすぐに忘れ去られるしそのわかりやすさだけのものや表面上の美しさだけに興味がある人とは相いれないんだけどね。写真って本当にわかりやすいし記録するのにちょうどいいけれど、何かを写すには写しすぎるし何かを表現するには表現しなさすぎるときがある。何かにフォーカスして表現する場合、そのときの悲しさの細かなことではなく悲しいというその事実だけを写しすぎる。その悲しさの細やかな情景についてを表現するのは写真では難しいのかなと思う。もしかしたら素人だからかな。写真家の人たちの写真をあまり見たことがないからそう思うのかもしれない。おすすめの写真家がいたら教えてください。

表面的に美しいだけの写真を撮るには角度だとか光の加減だとかそういったもろもろで可能なんだろうけれど、撮られた人や場所や物と撮影者との独特の距離感や空白とか愛しさを出すのが本当に難しい。かといって彼女を見せびらかすような写真が好きなわけでもない。安達祐実を写した彼女の夫の写真は好きだけど。撮影者のことがのぞけるような写真が好きだ。インスタグラムやツイッターはそういった個人の写真がたくさん見ることができる。その分、表面的なものも多いけれどそこには個人的な違和感があるからスルーできると思う。もしかしたら先入観で打ち捨てる馬鹿みたいなことしている可能性もあるけれど。そういった写真を見るのは元気があるときだけにしたいな。ちなみに、友だちの幼少期の写真や家族のアルバムとかは大好きです。ああいった写真がもっと見たい。愛しさが溢れているよね。

写真をたくさんツイッターにアップするので迷惑だなと思っている人がいるかもしれない。ごめんね。でも私は写真が好きだしできるだけ自分の見たものを記録しておきたいから許してほしい。そしてそれを人に見ていいねされるのって嬉しいものだから。たまに自分が表面的に美しいだけで何の記録でもないような投稿しているときがあって自分の矛盾に吐き気がすることもあるんだけどさ。言い訳がましくなってきたのでやめます。

木の枝を伸ばす

熱もなくただぼんやり毎日を過ごしている自分に嫌気がしている。なのに動けない。その動けない自分にも腹がたつ。どうしてこんなにも腰が重いのかな。

 

やることはちゃんと用意してもらっていてその上それなりに期待もされている(と思う)。それなのに動けない。また後でいいかな~と先延ばしにする癖があり、そして先延ばしにしたまま忘れる。すぐに取り掛かれば案外すぐ終わるんだろうなということは今までの経験でわかっているはずなのに。やらないことには終わらないんだ。

本当に熱を上げてというか命を燃やすというか生き急ぐというか、そういった人たちが大好きでたまらない。その人たちが一心不乱になって作ったものが好きだ。今はその人たちを後ろどころか観客席のような場所で、ぼんやりと眺めていいなーすごいなーと言っているだけの状態。きっとこのまま見向きもされず置き去られていくのがつらい。だから毎日毎日無駄に焦りを感じながら過ごしている。簡単な労働はするし簡単な勉強もするけれど、どれもこれもぼんやり毎日の時間をなんとかやり過ごすための暇つぶしのようなものにしか捉えられない。私にしかできないことなんてどこにも何にもないけれど自分がやりたいことを見つけたい。いろいろやってみない限りそれも見つかることはないんだけど。一本の木を育てることはいいことなんだけれど、その木の枝をどんどん無駄だと伐採していくのは違う。木の枝をたくさん伸ばして光合成していくことが今は必要とされている。何か一つに特化するには私は知らなさすぎるし何もできなさすぎる。枝を伐採するのはもっと後からでもできるよね。何もわからない未来やどうなるかもわからない人間関係に辟易するより今を見つめたい。くだらないことを言う他人にかまってすり減らす余裕なんてどこにもない。きょうはもう寝たいけど5分間だけ取り組んでからにしよう。

そういえばそろそろ夜更かしをやめたいな。早く寝たい。毎日。

 

卵焼きが上手く巻けるまで

卵焼きを上手く巻くのって本当に難しい。少しでも火を入れすぎるとトロトロふわふわが失われてしまうし、かといって半熟のままだと巻けないし。

 

いろいろあってトロトロふわふわな卵焼きを作れるようになる必要がある。今まで自分で卵焼きを作るときって割とあったし作ってたんだけどトロトロふわふわにしろと言われるとできなかった。卵に塩とかで味付けしただけなら割とやりやすいんだけど、牛乳とかいれると難しい。まあ入れないんだけど。卵焼きの基本的な作り方はわかっているもののトロトロふわふわは本当に難しい。卵焼きを作る手順を今一度おさらいしていこうと思う。

 

〜卵焼きを作る〜

①卵を割る。塩で味を付ける。切るように混ぜる。白身のドロっと部分を一切残さない。

②フライパンを熱する。フライパンの表面に手を掲げて温かさが伝わってきたらバターを投入。

③バターが焦げないうちに小さなおたま1杯分の卵液を入れる。かき混ぜる。巻く。

④卵液2杯目投入。巻いた卵の下にも卵液を入れる。かき混ぜる。巻く。

⑤卵液3杯目投入。以下④と同じ。完成。

 

一見すると簡単だ。問題は④で巻くところにある。上手く巻けず卵液が飛び出したりする。まだ④で上手く巻けずとも⑤の最終巻きで上手く巻ければいいのだけれど、これもなかなか難しい。モタモタして固くなる。よくない!とにかく卵焼きをたくさん作ってきれいにトロトロふわふわの卵焼きを作りたい。それを食パンに挟んで食べるんだ。

校閲を辞めた

8月31日付で辞めた。次の目処はない。私があれこれ書くのはおこがましいかなとも思ったが、そもそも自分の記録のために扱っているブログなので自分のために書き残しておく。

 

校閲とひとくくりに言ってもそれぞれ違う。基本的な内容は大体同じだとは思うけれど。校閲ガールのように誤字脱字をみるのはもちろん内容確認をすることもある。私は新聞校閲だったので新聞独特の用語の確認があった。あと洋数字と漢数字の使い分けとか。多分「きょう」や「あした」をひらがなで書くのはその癖だと思う。

明らかに間違っているのに記者に確認したらこのままでいい、と言われることなんて日常茶飯事で、記者によっては話を全く聞いてくれない人もいたので少しでも話を聞いてもらうためにいかに腰を低く愛想よくしていくかがポイントだった。それでも大抵の記者や支局長は丁寧で、わざわざありがとうございますと伝えてくれた。デスクも含めて本当にいい人たちが多かったと思う。部署にもよるけれど出勤時間が14時とか17時とかで終業時間もそれに伴って23時とかで夜遅いので残業とかあまりないかったと思う。むしろその日の仕事が終わってはやく切り上げるとかよくあった。ご飯を食べるために席を外すことが難しいときもあったのでパンやあらかじめ用意してきた簡単な弁当などを食べながら仕事していることもあった。まあ単純に食堂のご飯に飽きたっていうのもあるんだけど。自転車で通勤している人が多かったように思う。終電がない時間になるとタクシーで帰れるのが良かった。会社の中に眠れる場所もシャワーもあったし食堂や売店はもちろんのこと資料室もあったので会社の中で暮らせるなとかよく考えていた。会社に泊まるなんてよっぽどのことだけど。台風とか災害があるときこそ必要とされるものなのでそういったときには大変だった。記者もこんな中取材に行って記事を書かなくてはいけないのかと思うと本当に大変だなあと思っていた。

校閲で特に間違えたくないのは電話番号や住所、名前だなとよく思う。見出しと中身が一致していないのもダメですね。誤字や誤用もなるべく出したくない。NIE(教育に新聞を)とかやっているし…。言語は移り変わるものなので誤用なんてないということもあり、新しい使い方や新しくよく使われるようになった単語の使用などに柔軟に対応していこうという動きはあるが、検討会やらなんやらで遅れて追いつくことは多々あった。何にせよ現段階で定められている意味を使いたい。私は日本語に詳しくないのでいろんな人にとてもお世話になった。「丹精込めた」はダメで「丹精した」とするとかね。基本的にはいろんな年代の人にわかりやすく、というのは言わずもがなだけど、3桁の数字は横並びに書くと読みづらいからなるべくしないとか、カタカナや英語の略称やらを使いすぎないようにしようだとかいろいろあった。読者は年々高齢化しているので仕方がないと思う。紙面の体裁を整えるのも仕事の一つで、例えばある箇所については字体をゴシックで統一するとか電話番号の書き方はこうだとか。当たり前なんだけど見落としがちなことってたくさんあって、そこを防ぐ最後の砦のようなものが校閲なんだと思う。

新聞社ならではなのかはわからないけれど、独特の用語がそこそこあって最初は本当に訳がわからなかったのも思い出だな。わかるようになるまで時間が掛かった。キャラメルとか預かりとかyフローとかいろいろ。

校閲の仕事は好きだったし楽しかったと思う。いろんなことを知ることができたし、もう一度勉強し直さなきゃなと思うこともたくさんあった。ジッと座って黙々と作業することが私には割と向いているんだなとかどうしてもやる気が出ない日でも最低限はこなせるようにする方法とかがわかったし。また縁があればやりたい。

8/31

悪い知らせが二つ、終わりを迎えるものが二つ。夏が終わる。

 

夏は得意じゃない。羽目を外しすぎるきらいがあるし何より暑い。羽目を外したり活動的になるのは夏ならではだなあと思うがそれによって上手くいった試しはここ数年思い返してみてもない。浮き足立っているからかもしれない。浮き足立つとよくないなぁ。でも暑い中行動していた自分のことは褒めたいなと思う。涼しくなるにつれ布団から出られなくなりがちだけれど落ち着いて行動できるようになるかもしれない。

 

9月からは全くやることがなくなる。準備期間にすべきなのかもしれない。予定されていたものは全てなくなり、残ったのはお遊びの約束だけ。こんな状態で大丈夫なのか、生きていけるのかな。何だかよくわからない。

 

以前はお酒なんてほとんど飲まなかったのに最近はなぜだか毎晩飲みたくなる。アルコールで夜をとばしてやり過ごしている感覚がある。夜は長く眠れない。眠りたいのにうまく眠れないし、何かをしようとするとついぼうっとしてしまう。焦点がぼやけるのが自分でもよくわかる。悪い知らせがくる予感があってからこうだ。時間が解決してくれるのをただ待つ。

人から告白されるたび落ち込む

そしてその理由が自分でもよくわからない。

ネットで検索してみたら同じように告白されると落ち込む人がいるということはわかったけれど、大抵は友だちだと思っていたのに友だちではなかったのに失望しただとかそういう理由だった。私は別に相手に失望もしないし相手に告白なんてしないでほしいとも思わない。それは相手の自由ですしね。相手に関係なく落ち込む。例えそれが自分から好意を寄せている相手であったとしても、いざ告白されるとそのあとひどく落ち込んで寝たきりで何もかもが手につかなくなる。つまり相手に問題があって落ち込むというわけではないと思う。

ここで本当に言いたいのは相手に一切非はないということです。相手は悪くない。

 

ここまで下書きにあった。これを書いてからそこそこ考えていて、告白される前の空気だとか雰囲気が一番ストレスになっているんじゃないかと思った。告白される前のあの独特の緊張感のある空気!間合!苦手だ。逃げ出したくなる。例えるなら勝負事で勝敗がこの一手で決まるときのような。

過去に告白してくれた人の何人かは告白する前にやたら携帯をいじり黙り込んでいた。その時点で個人的には居心地が悪くなる。そして告白すると決めたときから告白するまでの緊張した面持ち!緊張が伝わってきて胃がキリキリしてくる。思い出しただけで胃が痛い。そんな緊張させてごめんなさいという気持ちと居心地が悪くなり逃げ出したい気持ちが混ざり合うもその場をなんとかやり過ごす。そしてその後の生活でその空気の中に身を置いたことによる精神的な疲れやらで気分が落ち込み何も手につかなくなり部屋ではベッドに横たわったままの状態になる。とにかく眠って回復するのを待つだけの状態。映画も読書も音楽をきくのも無理になる。緊張感のある空気が極端に苦手なのかもしれない。

しかし恋愛でお付き合いをするのに告白を避けることは大変難しいことかと思う。なので恋愛とは距離を置きたい。距離を。置きたい。しばらくは。特に告白とは。