どこにも行けない

結局どこにも行けない

わからない

得体の知れない何かに怯えてメソメソと泣く。自分は割と人間としてやれているほうだとは思うけれど欠如しているものが多い。あと少し踏ん張るべきところで踏ん張れない。協調性を求められると胃がキリキリして逃げたくなる。弱く軟く生きてきたくせに偉そうなことばかり言ってしまう。何にもできないくせにね。

いつもいつもこんな暗いことばかり考えているわけではないはずだけれど、人といるとダメになる。取り繕うのがうまくなってきたのは間違いないけれど、いつか自分が普通の人間ような反応ができていないことが露呈してしまうんじゃないかと思っている。湯船に浸かるとき、私はいつだってその日の会話を思い返してうまくやることができていたか、あのタイミングでこう言うべきだったのではないかと考える。相手が求める言葉をいつだって投げかけたいのになかなかうまくいかない。

なぜみんなそんなに人とわかりあいたいと望むんだろう。人は人とわかりあいたいものだという前提条件がわからない。それが常識だとしたら恐ろしいことだと思う。わかりあうことなんて根本的には無理ではないかというのは割といろんな人が言っていることだからそうなんだと思う。わかりあいたいと望む人がいるのもわかる。けれどそれが一般的な共通認識としてあるのだとすれば不思議だ。自分をわかってもらうことにどんなメリットがあるんだろう。私はそのとき何を考えて何を思って行動していて普段は何をしていて好きなものは何でどこに住んでいてなんて知られたくない。どこに行っていたとかどこに行くかなんて知られたくない。わざわざ説明したくもない。自分から言うことはあっても聞かれたくはない。好きな人のことをわかりたいという気持ちはわかる。でも全てをわかったようになるほうが面白くないと思うし、人間なんて刻一刻と変化するものだと思うからそこに意味なんてないんだと思う。好きな人にはいつだってその人の興味のある世界で生きていてほしい。新しいことを見て感じていろいろ考えて考えてその断片でも教えてくれたら嬉しい。表面的な理解。私は人のことを知ってもあまり引かない自信だけはあるけれど、それと同じくらい人に全てを見せたら引かれる自信がある。だからわざわざそんなことしないよ。わかってほしいって気持ちがほとんどの場合は湧いてこない。そうなんだ、そういうこともあるよね、って感じでいい。"わかる"より"そういうこともある"って感じの肯定を求めてる。

人にわかってもらおうとするとき一番の問題は全てを説明しなくてはいけないことだと思う。自分の人生から考えていたこと読んだ本聴いた曲まで説明しないとそこに至ったわけがわからない。一から説明しないといけないということは最近気がついた。そうしないと大抵の場合は変なことを言うやばい奴みたいな扱われ方をする。それじゃ困るんです、私は。だって私はものすごく普通だから。そこでやばい奴扱いされても何も創造できない。そう思われることにデメリットしかない。それを説明するのも嫌だしパーソナルなことすぎて踏み込まれたくない。人に自分をわかってもらうことに吐き気がする。なぜここまで嫌なのかがうまくつながらなくてわからない。いつだってどこだって浮いているように感じる原因は案外こういうことにあるのかもしれないな。思考がまとまらない。頭が悪いからかな。何晩も何晩もけとばしていきたい。人と関わるのは恐い。