どこにも行けない

結局どこにも行けない

1/4

あけましておめでとうございます。

 

31日に両親はリビングの電気が切れたとかでホームセンターへと行くと連絡がきた。ホームセンターついでに駅まで迎えにきてもらい帰宅。どうにも眠くて昼寝。蟹鍋ができたと起こされ、蟹を食べているうちに蕎麦はまた別の日に食べようということになる。蟹雑炊で締めた。

兄はカウントダウンジャパンへと行ったらしい。兄は甲殻類が苦手なので兄がいないときでないと甲殻類は食べられない。兄がいなくてラッキーだった。

父は早々と床に就いたため、母と2人で孤独のグルメをちょい見して紅白をみて2355をみて年越し。

 

ずっと年末にかしてもらった「A子さんの恋人」を読んでいる。やはり4巻でのあいこちゃんがどうにも切なくて、でも収まるところに収まっていって、そうよねと思う。あいこちゃんが一番身近にいそう。

 

いつまでたってもドラマの最終回をみることができない。本を読み終えることはできるのに。それでも全てが終わったあとの自分だけ取り残されたような気持ちや空虚さ、居心地の悪さというのはどうしようもない。いつまでたっても最終回を迎えられない。取り残されるのは悲しい。

 

どうしようもないサブカル崩れの自分はやはりまだ残っていて、それゆえにサブカル崩れの人間を嘲笑ってしまう。自分だけは違うなーんてまだどこかで思っているんだ。王道サブカルの「#足元倶楽部」をやれなかったし、ヴィレヴァンを愛することもできなかったし、夢野久作(特に少女地獄)もないし、お香を焚いたこともなかった。最近のサブカル女子主流の一眼レフには興味ないし、「チル」って言葉を使い続けることもできなかった。全部嫌だったから。サブカルだって言われることも嫌だった。それでも高校生の頃のサブカル崩れの自分は捨てられないCDの束の中にいる。捨てられないんだよなあ。不思議。

 

すきなものを「自分はこんなことも知っているんだぞ」アピールのために使うことがどうにもできない。すきなものをアピールするのではなく自分をアピールする。「自分はこんなこともしっているんだぞ」アピールをすることができる人のほうがきっと出世するんだろうしうまくやれるような気はしているけれど、すきなものでそれをやりたくないよ。一種こういろいろと考えてしまうのは自分の気持ちの悪い部分ではあると思うけれど、すきなものをアピールするのではなくすきなものを利用して自分をアピールするようなことはできませんね。できないことばかり。

 

1/4は友だちの誕生日だ。同じ星座なので占いによれば同じような性格のはずなのに似ているところなんてさっぱりわからない。彼女が羨ましくもあれば、気味が悪いなと思うこともある。それは上記のような理由で。それでもきっと何だかんだ年に一度くらいは会ってお茶をするんだろう。