どこにも行けない

結局どこにも行けない

ゆるしゆるされ生きているなど最近思うこと

しばらくぶりです。

近頃は仕事に追われ、とはいえかなり楽しくやっています。毎日いろんなことが起こっているはずなのに、ほとんど思い出せないのはなんでなんだろう。

 

「ゆるし、ゆるされ生きていく」という話を人とした。実際に自分は文句を言いつつも、半ば仕方なく人を「ゆるして」生きているという自覚があるのだけれど、それは自分もそうして誰かから「ゆるされ」ているだろうという想定があるから出来るのだと思う。自分のことを棚に上げて何かをするというのは簡単で、かつそうしなければ成り立っていかないことは多いのだけれど、できるだけ誰かと貸し借りはない関係でありたいと思う。自分のことを棚に上げ、なにかしらに迎合するのはそれはもう楽だろうけど、そうした楽は今後役に立つのか、自分の首を絞めるだけにならないか、そういうことは考えて選ばなければならない。

いつだって他人より少しでも自分だけは得をしていたい、と思う人が多いように感じる世の中で、どこかであえて負けていくことが大人になるということなのかもしれない。いわゆる「要領の良い」生き方をしたいのかという問いに対して、はっきりとイエスと答えられるタイプではないし、「要領の良い」生き方に対して羨ましいとは思うがそうはなりたくないと思う。自分の人生なので、美しいと思える自分でありたいと思う。他人より得をしたところで、それが美しい生き方なのか。得をすることで自分を罰してしまいそうになるのは、それはもう最悪だし、得できそうなところがあれば、得をした方がそれは良いとは思う。ただ、どうでもいいところでまで得をしなくたっていいんだ。意味がないから。そこで満たされるものなんて虚なものだと思う。

物を言わないことの重要さを日々感じる。それでも、声を上げなければいけない場面もある(威圧的な男性に会った時には強くあらねばならない)。多くを語る必要性はないし、それらを語ることで得はあったのか?心象は良いのか?など考える必要はある。

フィジカルとしても強く、メンタルの強さも大事とされるけれど、弱い部分があったってよくて、それを適応させることを無理にしなくても良いのではないか、と最近は思う。適応させていくことはやはり難しかった。適応させるより、どうにか生きやすいように道を探るほうが今の自分には合っているらしい。

何はともあれ、私は貸し借りなしというのを求めすぎる節があり、それをわかってくれる相手と過ごせるようにするのが良いのだと思う。最近は仕事でやや自分の方が重く背負っているなと感じることがあり、それをどう是正していくかというのが悩みの種である。悩みは尽きない。

貸し借りなしで生きようと思っているので、貸しは返せよと思い、つい強めに人に当たってしまうことがある。しかし、こちらが歩み寄れば相手も歩み寄ってくれるかもしれないという可能性はあるため、そこは固くなりすぎず接していくべきなのかもしれない。人間はそういった感情的な譲り合いや寄り添いでかなり態度が軟化する。感情ひとつで物事がやりやすくなるなら、多少は寄り添うことも吝かではない。人と接するとこういう発見がありますね。感情労働は目に見えない労働であるがためにない物として扱われるが、感情労働は割と重要視されているよな、と思う。ほんの少し言葉を添える、それだけでいい。そういえば感情労働について書いてあったような本を冒頭だけ読んでずっと放置しているな。

自分が「ゆるす」のは誰かに「ゆるされ」ているからだよ。きっとみんな誰かに「ゆるされ」て生きてきたし、生きている。それなら誰かの行いを「ゆるす」ようにしないと。声を上げていく必要があることもたくさん、本当にたくさんある。でも個人単位ではある程度「ゆるす」ようにしないといけませんね。反省します。

 

最近ぼんやり考えていたことをとりあえず書き出すだけ書き出してみて、もやもやは残っているがひとまずここまでで。おやすみなさい。